広島市西区草津地区は、千年以上の歴史を誇り、神社仏閣が多く点在しています。かつて港町としても栄え、かまぼこやがんすなど練り物作りが盛んになり名物となっています。西国街道から一歩入ると、路地があり古き良きまち並みが残っています。
浄教寺の臥龍松
その名のごとく地上に伏した龍が今にも飛び出しそうな枝振り。樹齢約300年のクロマツで長さ約20mを誇ります。日本の樹医の第一人者でもある故・山野忠彦氏がその姿から「臥龍松」と評し、「全国でも最長級」と言ったといわれています。
かまぼこ
草津は、かまぼこ店が点在します。昭和の初めには、70軒ほどのかまぼこ屋があったそうですが、現在は7軒ほど。線路沿いにある坂井屋は、創業100年以上の老舗。魚のさばきや成形など機械は使わず手作り。さらに食材にもこだわり、毎朝、市場で仕入れた鮮魚を使っています。広島名物の「がんす」には、焼きにんにくを入れた独自の味付け。細工かまぼこの金型を再活用したオリジナル商品の「もみじ天」は、宮島名物として観光客にも愛されています。多彩な商品開発でかまぼこを広めています。4代目の髙﨑明彦代表取締役は「かまぼこを味わってもらい多くの人に美味しさを知ってほしいですね」と話します。工場に併設した直売所でも購入できます。他にも工場直売所で買うことができるので、食べ比べるのも楽しみの一つです。
鏝絵(こてえ)
鏝絵は、江戸末期から昭和初期にかけ、左官職人が壁に塗る鏝(こて)で絵を描いた漆喰装飾。職人が施主への感謝と家の幸せを込めて施したそうです。絵柄は「波うさぎ」「鶴や亀」「龍」などさまざま。草津には、現在も9カ所の鏝絵を見ることができます。明治中期~後半に造られた蔵を取り壊すことに。唐獅子の鏝絵があり、草津まちづくりの会が「昔からの文化資産を後世に伝えたい」と、地元の不動産会社の協力を得て、今年4月に御幸川そばの草津まちづくり交流広場(草津本町)に移設。縦約60cm横約80cmの巧みの芸術作品を間近で見ることができます。寺などにもあるので、左官職人の技と心意気を見て回るのも草津散策の楽しみの一つ。
小泉家
小早川家の一族として現三原市に居を構えていました。戦国時代に毛利家の広島進出に伴い草津に移ったそうです。江戸時代の天保年間(1829-47)に酒造りを始め、大正時代からは嚴島神社(現廿日市市)の御神酒を造るようになったという記録が残っています。現在、小泉本店として、広島の風土に根ざした酒造りを目指しています。「米と水が大切」と話し、水は敷地内の井戸から汲み上げた水を使っています。
敷地内には貴重な史跡が残っています。1885(明治18)年に明治天皇が山口・広島・岡山を巡幸された際、休息場所として立ち寄られることになりました。庭に新しく休息するための御座位所を建設。明治天皇が行き去った後、建物は解体しましたが、跡地には御座位所で使っていた石畳で石碑を建立しました。94(明治27)年には皇太后も休憩するため立ち寄られました。道路向かいにも、明治天皇と皇太后が立ち寄られた記念として「鳳輦を置きとどめるところ」と記した石碑が建っています。小泉家では、明治天皇が立ち寄られた毎年8月1日には、現在も草津八幡宮による神事を執り行っているそうです。
さらに明治時代に大鳥居の再建に寄与したことから、庭には先代の柱の一部を祀っています。今回、特別に見せていただきました。普段は、一般には公開していません。
御座位所で使っていた石畳で作った石碑
先代の大鳥居の柱の一部が今なお残っています
住吉神社と旧草津港の雁木
1821(文政4)年に造成され草津港が築造された際に、豊漁と海上安全を願い移築された住吉神社。当時は海に突き出していたそうです。1966(昭和41)年から始まった西部開発埋立事業(商工センター)で周辺は埋め立てられ、現在は商業施設などが建ち面影は消えています。かつて草津港があった西部埋立第八公園には、階段状の石段があります。草津港にあった大雁木の一部を公園に移設。神社ともども周辺が海だったことを伝えています。
西部埋立第八公園にある雁木
舟板堀・遠見遮断
今もなお至るところに昔のまちの面影を見ることができます。草津本町では、西国街道から一歩、中に入ると、敷地がのこぎりの歯のようにジグザクに入り組んだ場所があります。「遠見遮断」といわれ、戦のとき、敵から身を隠すため遠くが見渡せないようにしたといわれています。さらに廃船になった船の板を外壁に利用した「舟板堀」を施した家が、いまも残っています。漁業・漁師のまちだった草津の歴史を垣間見ることができます。
敷地がのこぎりの歯のようにジグザクに入り組んだ「遠見遮断」
草津橋
草津地区の中央を流れる御幸川にかかる国道2号宮島街道の橋です。欄干には地域特産の牡蠣、紅白かまぼこ、鯛のレリーフが飾られています。