川野登美子さんが「さだちゃん」の思い継ぐ
広島平和記念公園に、大きく両手を広げ金色の折り鶴を捧げる少女のブロンズ像がある。「原爆の子の像」のモデルは、原爆で被爆した十年後、白血病で亡くなった佐々木禎子さん。広島市中区の川野登美子さん(79)は、幟町小学校時代の親友。中学校の時には、小学校のクラスメートとともに像の建立に尽力した。現在は、体験を若い世代に継承する原爆の「語り部」として、禎子さんの思い、原爆の恐ろしさ、命の大切さを伝えている。
2歳だった1945年の「あの日」。川野さんは、家族で疎開していた現東区牛田町で被爆した。家に居た家族は無事だったが、長兄は爆心地に近い県立広島第一中学校で被爆しやけどを負い、最後は母親の腕の中で息を引き取った。
禎子さんとの出会いは、小学校入学後。川野さんの実家は仏壇店、禎子さんは散髪店とお互い商売を営んでいたこともありすぐに打ち解け、「さだちゃん」「とみちゃん」と呼び合うほど。陣取り合戦で遊んだり、運動会でのリレーの練習に励んだり。「さだちゃんは活発で優しさがあった」と当時を思い出すと今でも笑顔が出てくる。
卒業目前の55年1月、禎子さんは白血病を発症し入院。川野さんら同級生は、交代で毎日、病院に見舞いに行くことにした。禎子さんは病床で元気になることを信じ鶴を折っていた。見舞いに行き帰る際、必ず1階ロビーまで見送ってくれる姿に「寂しかったんでしょうね。帰ってほしくなかったと思います」と、今でも光景に胸が締め付けられる。願いも叶わず禎子さんは、10月に12歳の若さで息を引き取る。後日、一片の紙切れを見せてもらった。禎子さん自ら白血球数を書き留めていた。「どんな思いで鶴を折っていたのかと思うと。やるせないし、かわいそうで…」。中学校の行事が忙しくなり、見舞いの回数が減り、約束を守れなかったことに今でも後悔が残っている。
禎子さんが亡くなって二週間後、霊前に集まった同級生で慰霊碑を造る話が持ち上がった。早速、ビラを作り全国中学校校長会で配布し募金を呼び掛けた。思いは全国の子どもたちへ広がり、約540万円(現在の5400万円)が集まった。中学時代は活動に費やし三年後、「原爆の子の像」が完成した。「平和や核兵器禁止ではなく、たださだちゃんとの約束を果たしたかった。約束を果たすことができほっとした」。
川野さんは、95年から語り部として活動を始めた。2018年からは広島県中小企業家同友会の13人が発起人となり発足した「NPO法人ピース マインズ ヒロシマ」の理事長として、平和記念公園に寄贈される折り鶴の再生紙で学習ノートを作り世界の子どもたちに無償で送付する「折り鶴ノートプロジェクト」に取り組んでいる。19年度は約2080冊を恵まれない国などに送った。「今後は核兵器保有国の子どもたちに送って、核兵器の恐ろしさを知ってほしい」と精力的に活動している。
川野さんは「自分自身の使命として、原爆の悲惨さを伝えることで、命の尊さ、平和の大切さを伝えたい」とさだちゃんの思いを今後も後世に伝えていきたいという。