よいことがあります
人はこちらの思い通りにはなりません。ましてやこうしてほしいと思ったことはそうはならないものです。それでもとなんとかなるかと、重ねて言えば煙たがれてしまいます。これは大人のことだけではありません。子どもも同じです。人は自分の考えで行動するもので、学校は自分の考えで行動する子どもを目指しているのですから、大人の都合に合う対応では教育ではありません。そのときそのときで一貫しない指導は子どもに伝わらず、大人はいらだつばかりです。
子どもが校内のものを壊してしまうことがあります。責めるように「きみが壊したんだね。」と言えば、子どもは「ぼくはやっていません」と否定するか、人のせいにするか、とかく自分の非を打ち消すことに苦心します。ものを壊せば非を認めるのが当たり前と思うのですが、これを繰り返されたとしたら子どもは、非を認めないほうに考えを向けます。私の話を受け止める心を整えます。初めに、ものを壊したのならけがをしているかもしれないので、「大丈夫か、けがをしていないか。」と聞きます。「けがはない。」と言えば、「それならよかった。」と答えます。そのあとに、「何があったのですか?」と聞いてやれば、ものを壊したことを話し出します。「そうだったのか。きみの説明で何があったか、そして、どうしてそうなったのかも分かりました。そして、きみの思いも分かりました。○○と考えたのですね。」最後に、「よい国語の勉強ができました。」で話を終えます。自分の非を打ち消す子どもを、あったことをなかったことにする責任逃れの人にしてはなりません。大事なのは自分のことばに責任を持つ人にすることです。ものを壊すのは良いことではないけれど、したことや思いを話してよかったと思わせることが肝心です。
よいことがあると思えば、子どもは自ずと考えて行動することを選びます。先日、2年生の教室で授業をしていると、体育館から教室に向かう1 年生が廊下を通りかかりました。体育で思いっきり体を動かした楽しい授業のあとは、にぎやかになりがちですが 1年生は声を出さずに歩いて教室に向かいました。「静かに歩いていて立派な歩き方でした。」と言えば、「話をしてうるさくするのは恥ずかしいことです。だって、2年生の人たちは静かに授業をしています。だから、恥ずかしいことです。」「静かにしていたら、早く着替えができます。ほらね、先生。」「ぼくもいいことがあった。(お腹をなでながら)ほら、こんなにたくさんお茶が飲めた。」「私は席について早く本が読めます。」と、よいことを教えてくれました。
子どもの心に届く話は、子どもに安心感を持たせ、受け止める心を持たせることから始めます。そのうえで、子どもに考えさせる話をします。廊下を歩く足先まで心を向けるほどの、思考を働かせることばを教師から発し、子どもが受け止めて行動すれば、よいことがある……。よいことがあれば自ら考えて行動するようになるものです。